中山道


六十九
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         the nakasen‐road

武蔵国  一.板橋宿 二.蕨宿 三.浦和宿 四.大宮宿 五.上尾宿
  六.桶川宿 七.鴻巣宿 八.熊谷宿 九.深谷宿 十.本庄宿

板橋宿
板橋宿 中山道六十九次『木曾街道板橋之驛』 天保6-8年(1835-1837年)、渓斎英泉筆。
画面の左端、道の中央に「是從板橋(これより いたばし)」と記されているであろう傍示杭[3]が建っている。中央より若干左手に見える姿のよい旅人は武家の夫婦で、1人の使用人が後に続く。その使用人は、乗っていくよう武家夫婦に声掛けすべく出茶屋から飛び出してきた駕籠かきを、巧みに遮っている。使用人の体の向きから察するに、おそらく3人は茶屋で一服していたのであろう。休憩後の出ばなの誘いを駕籠かきは振り切られてしまったように見える。しかし、武士の妻は声に応えてか頭の向きを変えている。駕籠かきが客をのがしたかどうかはまだ分からない。茶屋の中には客の町人2人がいて、榎(えのき)の陰に隠れて見えないが、飲み食いしているはずである。また、店先では馬子が馬のための草鞋を取り替えている。

板橋宿
板橋宿(いたばし-しゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて1番目の宿場。 同時に、川越街道(川越・児玉往還)の起点でもある。
所在地は、江戸期には東海道武蔵国豊島郡板橋郷下板橋村。現在の住所では東京都板橋区本町、および、仲宿、板橋1丁目、3丁目にあたる。

江戸時代には武蔵国豊島郡下板橋村の一部で、江戸四宿の一つとして栄えた。江戸の境界にあたり、江戸後期には上宿の入り口にある大木戸より内側をもって「江戸御府内」「朱引き」、すなわち、「江戸」として扱われていた。
板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(京側、北の方)から上宿(かみ-しゅく。現在の本町)、仲宿(なか-しゅく、なか-じゅく、中宿とも。現在の仲宿)、平尾宿(ひらお-しゅく。下宿〈しも-しゅく〉とも称。現在の板橋)があった。 上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川であり、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にあった。
道中奉行による天保12-15年(1841-1844年)の調べで、宿往還の長さ20町9間(約2.2km)、うち町並地は長さ15町49間(約1.7km)を南北に広がる。 宿内人口2,448人(うち、男1,053人、女1,395人)。 宿内家数573軒。 うち、本陣は仲宿に1軒、脇本陣は各宿に1軒ずつ計3軒が設けられ、旅籠(はたご)は総計54軒であった。 板橋宿の中心的存在であった仲宿には、問屋場、貫目改所、馬継ぎ場、番屋(自身番の詰め所)があった。また、上宿には木賃宿(商人宿)や馬喰宿が建ち並んでいた。
江戸時代には日本橋が各主要街道の形式上の起点ではあったが、実際の旅の起点・終点としては、江戸四宿と呼ばれる品川宿、千住宿、内藤新宿、そして、板橋宿が機能していた。 これらの宿場には茶屋や酒楼はもちろん飯盛旅籠(いいもり-はたご)も多くあり、旅人のみならず見送り人や飯森女(宿場女郎)目当ての客なども取り込んでたいそうな賑わいを見せた。 規模は同じ天保15年頃の宿内人口と家数を比較して大きいほうから、千住宿(9,556人、2,370軒)、品川宿(7,000人、1,600軒)、内藤新宿(2,377人、698軒余)、板橋宿(2,448人、573軒)と、板橋宿は四宿の中では最下位ながら、その繁栄ぶりは中山道中有数であった。 なお、板橋宿は150人もの飯森女を置くことが認められており、日本橋寄りの平尾宿には飯盛旅籠が軒を連ねていた。
宿場町として終焉を迎えたのは明治時代。 その頃になると中山道の重要性の低減に連れて徐々に寂れてゆき、板橋遊郭へと変貌していった。