中山道


六十九
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上尾宿
上尾宿 中山道六十九次『木曾街道 上尾宿 加茂之社』 天保6-8年(1835-1837年)、渓斎英泉 画
描かれたのは、実りの季節を迎えた神域と農民の働きぶり、そして旅路である。上尾宿と江戸方に一つ手前の宿場である大宮宿との間に位置する加茂神社と加茂宮村が舞台に選ばれた。秋祭りが近いであろう社には何本もの加茂大明神の奉納幟がはためいている。その中の一部に絵の版元「いせり(伊勢利)の宣伝が見えるのは、絵師一流の洒落っ気である。社の前では男2人女2人の農民が唐箕を使って籾(もみ)の精選に励んでいる。その奥には立場茶屋(#天神橋の立場)があり、今しがた茶屋を発った侍と供の2人連れ、一服しようと立ち寄る商人1人が見える。もっとも、実際の立場は、近くはあっても神社と隣接していたわけではなかった。また、街道筋の境内前に出張って唐箕を使うなど、ずいぶんおかしな光景には違いない。つまり、絵師は3つの画題を一画面に詰め込んだのであり、絵画的工夫の結果としてこの図がある。

上尾宿
上尾宿(あげお-しゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。 中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて5番目の宿場。
所在地は、江戸期には東海道武蔵国足立郡上尾宿。 現在の埼玉県上尾市にあたる。

幕府直轄領(通称:天領)である。 道中奉行による天保14年(1843年)の調べで、町並みは10町10間(約1.1km)。宿内人口793人(うち、男372人、女421人)。宿内家数182軒(本陣1軒、脇本陣3軒、問屋場1軒、高札場1軒、旅籠41軒)。
現在の仲町付近が上尾宿の中心で、本陣・脇本陣・問屋場・高札場などはここに集中していた。 比較的小さな宿場であったが、本陣の規模は信濃国・塩尻宿のものに次ぐ大きさを誇った。 この本陣は氷川鍬神社の正面にあり、その両側に脇本陣が2軒あった。 神社のすぐ南にもう1軒の脇本陣があり、すなわち上尾宿には、本陣が1軒(林八郎右衛門家)、脇本陣が3軒(本陣の両側が白石長左衛門家、井上五郎右衛門家、向かいが細井弥一郎家)あった。 上尾宿は江戸を出立してからおよそ10里の地点にあり、旅人が1日で歩く距離に最も近似であった。日本橋を七つ立ちしていれば、上尾宿で最初の宿を探すことになる。 そのため、周辺の宿場より旅籠が多く、天保の頃で41軒と賑わっていた。 また、飯盛旅籠(めしもり-はたご)も多い。『中山道宿村大概帳』には飯盛女の数49人とあり、これを目当てに川越や岩槻あたりからやってくる遊び客も少なくなかったという。 茶屋も数軒あり。