中山道


六十九
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桶川宿
桶川宿 中山道六十九次『岐阻街道 桶川宿 曠原之景』 天保6-8年(1835-1837年)、渓斎英泉 画
簡素な家の庭先で麦の穂をこぐ農婦に、旅人が氷川天満神社(加納天神)への道を尋ねている。桶川宿の北に広がる湿潤な昿原(こうげん)に暮らす庶民を描いた一図である。

桶川宿
桶川宿(おけがわ-しゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。 中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて6番目の宿場。
所在地は、江戸期には東海道武蔵国足立郡桶川郷桶川宿。 現在の埼玉県桶川市にあたる。
そこそこの荷物を抱えて江戸・日本橋を出立した旅人がおよそ1日歩き通して日暮れどきを迎え、宿を求めるのがここ桶川あたりであったとされる。

「桶川」の地名の由来については諸説ある。 最も有力なのは「沖側(オキガワ)」説で、「オキ」を「広々とした田畑」の意とし、その「方向(ガワ)」である「沖側(オキ-ガワ)」が転訛したとするもの。 他にも、湿地が多い土地柄で、東に芝川、南に鴨川の水源があることから、「川が起こる」意で「起き川(オキガワ)」とする説などがある。 この地名「オケガワ」が初めて文献に現れるのは観応3年(1352年)、足利尊氏が家臣にあてた下文(くだし-ぶみ)であり、そこには「武藏国足立郡桶皮郷内菅谷村(むさし-の-くに あだち-ごおり おけがわ-の-ごう-ない すがや-むら)」とある。

日本橋から距離にして10里14町(約40.8km)と、ちょうどそれは江戸を出立した旅人が1日で歩く道程とおおよそ等しく、江戸方に一つ手前の上尾宿(9里16町、約37.1km)とともに、宿場町として絶好の位置にあったと言える。 また、この距離はフルマラソンともほぼ同じである。
桶川宿は寛永12年(1635年)に設置された。 当初わずか58軒に過ぎなかった宿内家数は、「中山道もの」といわれた紅花等の染料や食用農作物の集散地となっていた天保14年(1843年)頃には347軒に達し、経済的にも文化的にも繁栄を見せている。
他の宿場と比較する意味でも重要なのは天保14年の記録であるが、それによると当時の桶川宿の規模は、宿内人口1,444人、町並み9町半(約1.0km)、宿内家数347軒であった。 本陣は1軒、脇本陣は2軒。府川家が世襲した敷地面積1,000坪余、建坪200坪に及ぶ本陣は、当時の建物の一部が個人宅として現存している。 旅籠は36軒あり、当時の建物を残して今日ある「武村旅館」はその中の一軒であった。
加賀前田家を始めとする参勤交代の大名の多くが、桶川宿の府川本陣を定宿としていた。 水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が足跡を残していることも知られている。 また、文久元年11月13日(西暦1861年1月2日)には、皇女・和宮(親子内親王)が公武合体政策の一環で徳川将軍・家茂の御台所として降嫁すべく江戸へ下向の際、宿泊している。