中山道


六十九
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鴻巣宿
鴻巣宿 中山道六十九次『岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望』 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉 画
人家が途絶えた寂しい道は鴻巣宿近辺ではなく、さらに先、間の宿がある吹上あたりの風景である。旅路の目印となる榎がまばらに植えられた昿原(こうげん)の縄手を旅の商人や虚無僧が往き交い、背景では雪をいただく富士の山が雄大な姿を現わしている。

鴻巣宿
鴻巣宿(こうのすしゅく)は、江戸時代に整備され、栄えていた宿場町である。
中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて7番目、すなわち武蔵国のうち第7の宿である。
所在地は、江戸期には東海道武蔵国足立郡鴻巣宿。現在の埼玉県鴻巣市にあたる。
なお、上方(京側)へ一つ先の熊谷宿との間には、間の宿であり日光脇往還との交差点でもある吹上宿がある。

慶長7年(1602年)まで鴻巣宿は現在の北本市(きたもと-し)に位置していたが、江戸幕府の宿駅整備にともない、それまでの鴻巣宿より北の、市宿新田(ししゅく-しんでん) に移設された。 これにより、それまでの鴻巣宿は「元の鴻巣」との意から「本鴻巣村(もと-こうのす-むら。元鴻巣村とも記)」と表わされるようになり、元の宿場であることから「本宿村(もとしゅく-むら。元宿村とも記)」と表わされるようになった。
なお、「本宿村」は1879年(明治12年)に「北本宿村」に改称されたのち、1889年(明治22年)に中丸村大字北本宿となった。1928年(昭和3年)に国鉄高崎線(旧・日本鉄道、現・JR東日本高崎線)の駅が開設された際に駅名として採用され、1943年(昭和18年)に成立した新村の村名となった。北本宿村は1959年(昭和34年)の町制施行の際に北本町に改称された。

宿場移設の理由として桶川宿に近すぎたためとの説があるが、上尾宿と桶川宿は桶川宿と移設前の鴻巣宿より近いにもかかわらず宿場の移設が行われなかった点から、これが要因であるとは言えない。 同様に熊谷宿から遠すぎたためとする説も、宿駅整備以前に宿場として機能し、日光脇往還が交差する交通の要衝である吹上村(吹上宿)を正規の宿場とすれば問題とならなかったことから、これも決定的な要因とは成り得ない。 鴻巣御殿の建設や大間村(現・鴻巣市大間)の古刹、勝願寺が徳川家の庇護を受け、鴻巣宿に移ったこと、岩附城下の市宿から天文20年(1551年)に移って、市宿新田として開発をしていた有力武将・小池長門守久宗(鴻巣七騎の一人)が積極的に移設を推進したことなど、いくつかの要因が重なって移設が行われたと見るべきである。 なお、孫の隼人助は鴻巣御殿用地を寄進し、子孫は宿役人となった。
この宿場の移設によって、それまで市宿新田と呼ばれていた場所が鴻巣宿となった。
鴻巣宿は、中山道のほかにも、松山(現・東松山市)に至る吉見道、箕田追分を経て忍藩の居城・忍城(在・行田市)に至る忍道、および、私市(現・北埼玉郡騎西町)に向かう道との間で宿継ぎが行われ、中山道の宿場町の中では比較的大きなものであった。
鴻巣宿周辺にはいくつかの立場(たてば)が存在したが、中でも鴻巣宿と熊谷宿の間にあり、日光脇往還との交差点に位置していた吹上宿(現・鴻巣市)は上述の忍城へと至る中継地点としての地の利もあり、間の宿として発展した。 鴻巣宿周辺には他に久下(現・熊谷市)、箕田(現・鴻巣市)、東間(現・北本市)、本鴻巣(のち、本宿と称。現・北本市)に立場が置かれていた。

天保14年(1843年)の調べでは、宿内人口2,274人、町並み17町(約1.9km)、宿内家数566軒。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠58軒と記録に留める。